以前お知らせした、畑に生えていた木。
どうしようかと思案していましたが、やはり取り除くことにしました。
そしてその方法を考えていたのですが、案ずるよりなんとやら。
ヨコに張った根を4本くらい(切れない唐鍬を借りて。ホントにきれないんだもんなあ)切断。
ためしに幹を揺らしたら、ぐらぐら揺れるので、そのまま押したら、バキリと主根が折れまして、首尾よく倒すことが出来ました。
最初はある種の達成感みたいなものがあって、倒されて横たわる名前も知らない木を眺めていたのです。
が、眺めるうちに、急に何か複雑な思いにかられました。
感傷的に過ぎるといわれてしまうかもしれません。でもそのとき、私はこの木をたった今殺してしまった、という認識をしたのです。思わず両手を合わせたのですが、これは順番が逆でした。倒す前にそうしますよね。
木を倒して、改めて気が付いたのですが、こうして「農」をしていくという事とは、いかにも多くの生命の犠牲の上になりたっているものであります。
ことそれに「なりわい」の字がつく農業においては、生命を育む産業とかいうようなイメージがあります。しかし実のところ、それは農業者に「都合のよい生命」は育むけれど、そうでない多くの生命は切り捨てているというのが本当のところではないか、と思う今日この頃。
だからどうだ、とか、じゃどうすればいいのだ、ということではないのですが、気が付いたことをそのままに書きました。うーん、でももう一言。これは「食育」以前の問題じゃなかろうか。どうやって伝えようか。--kata
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